クソゲーハンター誕生秘話 その3

今日になってやっと、Amazonから超クソゲー1+2、俺の妹がこんなに可愛いわけがない9、はじめてのクソゲーが届く。
はじめてのクソゲーは、俺とBBさんと箭本君の誰が書いても絶対こうならないという意味で(悪い意味じゃなく)興味深かった。
 
さて、BBさんこと多根さんと知り合ったのは、超クソゲーを書く5年以上前だったはず。
そこか俺はら超クソゲーを書き、多根さんは「ピュアガール」というエロゲー雑誌でコラムを連載していた
ピュアガールは、ネットで自分の絵を発表できるようになりCGペイント技術が上達し始めた頃、ネットを通じて編集長の独断でプロアマ問わずに絵師にカラー1ページ丸々使った上質の印刷のイラストコーナーが売りだったエロゲー雑誌で、これがエロゲー原画師やライトノベルイラストレーターへの登竜門だったりした雑誌だ。
実際この雑誌から世に出た絵描きさんも多いし、いま30歳以上のオタ業界の絵関係の仕事についてる人なら一度は載ってみたいと思った雑誌だと思う
毎号8ページとか使ってたはずなので、年に1冊づつ全部のカラーイラストをまとめた画集を別冊として出せばバカ売れしたはずなのに、なぜそうしなかったのか本当に謎だ。
 
この本に関してはいずれ改めて書くとして、多根さんだ。
クソゲー終了後、俺と箭本君がちょうどコミケか何かの時期に、わざわざ雑誌QuickJapanの特集企画超ギャルゲー』のために東京に呼び出された。
ここで、前々から懸案になってた人数が足りない問題が浮上したわけだ。
おたくウィークリーとG−TIMEで超クソゲーのためのレビュー原稿は毎月書き溜めていたのでいいとして、それ以外のことをやろうとするとどうしても人数的な制約が出たわけだ。
 
しかも、超クソゲーの書き手=クソゲーハンターになるには俺や箭本君と同等の業(ワザでもゴウでもいい)を持ってないと駄目で、実際商業ライターにはその条件を満たせるヤツが事実として2人しかいなかったが、その2人はがっぷ獅子丸とゾルゲ市蔵という名前だったのでどうしようもなかった。
この頃には、俺が謎のスカウト活動をしていろんなヤツに無闇にチャンスを与えるという行動を始めていたが、半分は岡田斗司夫氏から引き立てを受けた恩を誰かにも分けたかったのと、残り半分は今後何をやるにしても絶対に付きまとう人的リソースの限界点を突破するためだった。
その中の、クソゲーハンターになれるヤツに該当する人間が、ハッキリ言って箭本君以外には多根さんしかいなかったわけだ。しかも、多根さんもコミケピュアガールの打ち合わせかは知らなかったが東京に出てきていて、使える手ゴマの少なさに苦悶してた編集部Hと箭本君の前に多根さんを(飲み会の最中だったのに)突然呼び出して、夜中の太田出版編集部で紹介した。そして出来たのが、QuickJapanの超ギャルゲー特集だ。思惑通り、多根さんは見込んだクオリティ以上の仕事をしてくれた
もちろん無理矢理ねじ込んだに近かったので軋轢は無いではなかったし、クソゲーにライター3人は要らないと思ってた人間は暗に反対はしたが、逆に『3人いれば、1.5倍のスピードで仕事をこなせるようになるから結果的に全員が得をする』と説得して認めさせた。
 
そして、超ギャルゲーでの仕事ぶりでまずは太田出版、次にクソゲー2で読者を納得させたのはさすが多根さんというところだ。
もちろん色々問題はあった。俺が考え抜いて選び抜いた第3のクソゲーハンターとしての追加のBBさんを、追加が成功したという結果だけ見て、もしかしたらクソゲーハンターって誰でも出来んじゃね? と考える勢力があったわけだ。これ以上詳しいことを書くのは止めとくが、それは売り上げをもって残念ながら否定された。

これで、超○○というシリーズを安定的に生産するシステムは確立した……と安心していたら、立ち上がってしまったんですよ。Continueが。ライターが3人もいれば、あとは補強すりゃ雑誌が作れるだろうと。
俺は吐血した。